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2017/02/26
人を簡単に批判しない
父のくしゃみ
年を取るとだんだん両親に似てくるそうです。昔は目鼻は母に似ていると思っていたのだが最近、目は父に似ていることに気が付いた。運動神経は母に似て割といいのではと思っている!?ただ不格好な歩き方は間違いなく父のDNAの影響を大きく受けている。ますます似てくるのだろうが最近はそれでいいと思っている。父のことは5年ほど前に別のブログに書いたことがある。このブログに再掲しようと考えているが今日は父のことで少し前に気づいて反省したことがあったので記します。父は論理的、理性的でユーモアのセンスがある。定年退職してからは夜は10時には寝て朝5時には起きる良い習慣を持っている。おまけに働き者でもある。しかしもちろん突っ込みどころもあり、一つ上げると、「男子厨房に入らず」を地でいくタイプだ。その分、母がいつも難儀をしているのだが家事までできればスーパーマンだ。あとゴルフと三線だけは少しだけ私がうまいかな・・・それ以外は父にはまったく勝てないのだが、そんな父に唯一だろうか不満があった。父のくしゃみである。
何事か!
父のくしゃみがとにかく大きいのだ。父が「ハアーーーーックション!!!!!!」とすれば普天間基地にまで聞こえるのではないか!?それはさすがにないか・・・でも50メートル先には軽く聞こえるだろう。もちろん家の中だから思いっきりしているのだろう。他人の前ではしないと思う。しかし、聞いた方からすると突然くるから、沖縄ではタマシヌギルと言うがびっくりして魂が体から飛び出そうになる。昔はそんなにくしゃみをしなかったと思う。2、3年前から増えたのではないだろうか。地鳴りがすると言ったらこれまた大げさになるが何事かと驚いてしまう。しかも結構連続でくることが多い。最初は大変だな、と思っていたがあまりにもくしゃみが大きく、日によっては何回も聞くものだから私の心は徐々に穏やかでなくなっていった。ただ感情は一時的なものと知っていたからくしゃみをする時は手を口に当ててするようにといったお願いをした。人は急に驚かされると怒る、頭にくる、キレるそうだ。脳には感情が先に到達するそうで怒りは生存本能らしい。理性は遅れてくる。それで大抵後で後悔する。それを知っている私だが時には感情が理性を上回ってしまい、「何回も何回もやー。マブヤー(魂)落としそうになるから驚かせないでくれないか」と言ってしまうのだ。その言葉には明らかに怒気が含まれている。生存本能が働いてしまったのだ。しかし、父の方は決して逆ギレなどはしない。しまった、と遅まきながら手を口にあてる。仕草がかわいい。そしてユーモアを交えて見事に謝るのだ。いつも心に余裕がある。優しくて力持ちを地でいくタイプでもある。頭がさがる。逆に自分にはいつもユーモアがないなと思ってしまう。
泣きたくなる
ある時、母ときょうだいが父のくしゃみのことで笑いながら話していた。「父サン、花粉症みたいだからねー」
そんなことを初めて聞いた私は「花粉症!?!?」「まさかやー、なんでよ」「沖縄でなー!?!?」「俺は全然じゃないのに!?!?」・・・父はしたくて何回もくしゃみをしていたのではなかった。あまりにも見事なくしゃみ!?だったので、私はワザとやっているんじゃないかと邪推までし、直そうともしない、という風に父のくしゃみを聞くたびに責め心が大きくなっていた。しかし、父も困っていたのだ、おくびにも出さないが辛いのかもしれない。「父チャン、何も知らないでごめんよ・・・」私は自分を恥じました。
話は大きく変わるが、最近気になることのひとつが県外で起きている「沖縄ヘイト」だ。私は大学時代を東京で過ごさせてもらった。就職も県外だったが、当時私が接しさせてもらった県外の多くの人はとても親切だった。もちろん私はすべての県外の人に接したわけではないし、正確に記すのであれば過去も含め県外の人から侮辱的な発言を受けたことがないわけではない。当然ある。しかしそれは軽微でしかも圧倒的に少ない。例外といえる。それに沖縄の人からも嫌な思いをさせられたことがある。その割合も似ているから県外も県内も同じことである。
何が変わったのか
県内、県外だけでなく、どこの国にもいい人も、悪い人もいるのは当たり前だ。少なくとも私の物心ついてからこれまで40年近くの経験として沖縄だけに偏見を持っているという県外の人を直接見たことはなかった。しかし、時代が変わってきているのだろうか。初めに驚いたのは2013年1月、オスプレイ配備反対を訴えた県内41市町村首長ら連名の建白書を携えて上京、デモ行進した翁長当時那覇市長らに「売国奴」などの罵声が路上の一群から浴びせられたというニュースだ。最近では去年10月に開催された県民大会参加者への誹謗中傷を私も新聞やテレビで見聞きした。ネットでも当然見かけたが一番気が重くなった。沖縄ヘイトでは「差別か差別でないか」ということも議論になる。「差別」が過去、そして現在、またどの世界でもあることぐらい知っている。また私の心の中にも潜んでいることも知っているが、完全に過去の遺物と思った「沖縄差別」に議論を後戻りさせる「沖縄ヘイト」というものに今の時代まさか遭遇するとは思わなかった。
もっと相手を知ろう
ウチナーンチュとして同胞が罵声を浴びせられたとなると一瞬心穏やかでいられなくなるが、沖縄ヘイトを行う人を責める気にはならない。なぜなら私が父の花粉症を知らずに父のくしゃみを責めたように、彼ら彼女らも沖縄の人を知らずに責めている可能性があるからだ。またそうでないとしても差別を行う人はあくまで例外、一部の人であり、その人たちにも私の想像を超えた理由があるのだろうと理性が働くのだ。沖縄ヘイトを行う人は私を映す鏡である。相手のことをよく知ろうともせずに安易に自分一人で怒りや憎しみを増幅させているだけではないのか、そう自分に常に問いかけたい。沖縄ヘイト問題と父のくしゃみは同根である。そう気づいた時、私は相手を知ろうと、理解しようとせずに人を簡単に批判しない、と決めたのだ。
沖縄ヘイトの原因については様々解説があり、ひとつは米軍基地問題が大きく影響しているようだ。国防に関わることであり、その他の原因も簡単に解決できないことは百も承知だが私がシンプルに思うのは相手への尊敬や敬意もなく争っても何もいいことはないのではないか、ということだ。これまた教義的になるが争う者はすべて滅びる、という言葉があるではないか。我々は滅びるために生きているのか。。。
時代の大きな流れとしては共生・協調の時代に進むと思っているが、もしも経済状況がどん詰まりになった場合、人は生存本能が働き、自分や家族や同胞を守るためにそれ以外をますます排除したり対立するようになるだろう。逡巡しながらも。それに対してきれいごとかもしれないが、我々は理性と理想を持って行動していかなければならないと思う。対立の根本的な解決方法は経済の循環と善い心を増やすことだ。そのために今自分にできることはもっともっと働くことだな。なぜなら私はまだ稼ぎが少ないからだ。まだ目標の2、3割しか稼いでいない。おっしゃー、また頑張る理由ができた。
父のくしゃみは私にとって人として当たり前のことだが、とても大切なことを教えてくれた。父チャン、たまにはくしゃみしていいからね。ただし手を口にあててね。沖縄ヘイトは重い問題だが、現実に負けずに自分を戒めながら顧みながら、まず決して県内で分断されずに、と同時に県外の人々との連帯を訴えていきたいな。
(おまけ)記事のタイトルにある「批判」という言葉ですが、「非難」と似ており、どちらを使ったら適切かと迷ってしまいました。こんな時はグーグルで調べようとググってみました。すると違いが分かるだけでなくとても勉強になるブログの記事がありました。あやふやになった時また確認できるように、またブログの記事はヒットするという好例としてご紹介します。少し難しいですが私の信念を固めるのにもとても役立ちました。非難はNG。批判はOK。ただ簡単にしない。
〔参考〕中学生にもわかる「批判」と「非難」ってどうちがうのか?